自分の中に横たわり続けている、怖れ

風花です。いつもたくさんのご縁をありがとうございます。


時折、人生の中では

自分が受け入れがたいと感じる出来事に出会うことが、あるかもしれません。


そして、受け入れがたいと感じる出来事は、ほとんどが

人間を通して。しかも近くにいる人を通してであったり、ご縁の深い人から。

それが好きな人であっても、もたらされることがあるかと思います。


受け入れがたいものが近くに迫ってくるとき、

私たちは先に嫌悪感を感じ、それらを防御する体制をとるか

もしくは目の前から、ちょっと意識をずらして、

なかったことにしてしまうのかもしれません。



受け入れがたいと感じるものは、実は裏を返すと

愛の要素も備えているのだけれど。。


無理と感じるときは、それを素直にはキャッチできない。

むしろ、疑い。疑い続けていたり、どうせと諦めていたり。

怒りで跳ね飛ばしてしまうことも、あるのかもしれません。



ここ最近、自分はこんなに怖れていたのか。と、感じる出来事がありました。

きっかけはある治療と、コロナかな。

風花自身、実は子供時代に肺炎をすでに2回経験しています。

コロナの話が出てきてから、小さい頃に肺炎で入院をした時の記憶が、

すごく湧いてくるようになりました。1回目の緊急事態宣言の頃は、どこか

かなり、自分の内側でなんともいえない怖れが出ていたように思います。



肺炎にかかったころ、家族は一番荒れていました。

記憶の中でおぼろげですが、入院する日も、両親は朝から喧嘩。

私はその喧嘩のさなかで、なぜかアイロン台?の足のところに、手の指を挟んじゃってね。

それでまた私も泣き叫んで。いい加減にしてと、怒られつつ。

どこに行くの?と聞いても、病院に行くとは、そういえば教えてもらえなかったんでした。


今思えば、あの古い病院に5歳くらいの女の子が、よく1ヶ月以上も入院していたなと

思います。夜になると、日本人形が窓ガラスに写ってたりしてね。

その5歳の自分は、なぜ入院になったのかも。なんで家族がずっと喧嘩しているのかも

とにかく『分からない恐怖』に包まれていたんだと思います。


入院先は確か4つのベットがあるお部屋で。最初は私と同じくらいの女の子。

その次はちょっとやんちゃな男の子が同時期に入院していたのですが、

結構早く2人とも退院してしまったりと。また、それも今思うと。

小さな自分にはせっかくできたお友達で、なんでいなくなるの?という気持ちだったと思います。


最近別件で、治療しないといけないことがあって、医院へ通っているのですが

そこでも怖れがすごく沸く。ただ、それは大人の自分ではないなとはっきりわかる。

でも、全身から身の毛のよだつような感覚もして、なんか心地が良くない。


きっとそれだけ私の体の中に。あの5歳の肺炎の頃からの『分からない』という

言いようのない怖れがずっと、ずっと今日まで横たわり続けていたのかもしれません。

その怖れに注目し続けていると、すごく体が安心に満ちてきます。

こんなに怖かったんだよ、、と『怖れ』そのものが。

私に、ただその存在を、認めて気づいてもらいたかったようにも感じます。

怖れそのものが、やっと気づいてくれたんだね。と、ホッとしているようにも思う。

この感覚を体験してからは、治療自体へも前向きにもなれているし、緊張が和らいだ気もします。



人は、時折こういった気づきを得るためにも

ちょっと困難な出来事が目の前に現れることがあるのだと思います。


そして、静けさとつながると、こういった身近で起こる出来事へも

単なる否定では終わすことなく、ここになんのヒントが含まれているのだろう?

どうしてこの出来事が自分の目の前に現れたのだろう。と、

内観するきっかけ。または過去の出来事を正しく見つめる再チャンスとして

出てきたりもするなと、思うものです。


同じような出来事があまりにも続くとき、きっとまだ『否定』『逃避』の状態で

その、奥の部分にたどり着くのに時間がかかっているのかもしれない。

その物事はまた、別の色を変えてやってくるのかもしれません。


無理してこじ開けるものでもなく、大いなる流れの中で

自分の中に横たわるものに気づくプロセスが、自然にやってくるのかなと思います。

そのきっかけが、セッションという場所を通して

コンコン。と扉を一緒にノックするタイミングであったなら、

私は共にありたいと思うものです。















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